人の心理を捉えようとする時,二つの捉え方があります。一つは心を閉じたシステムとして見る立場です。もう一つの立場は心を社会的,歴史的文脈の中で可変的なものとみる立場です。言い換えれば,心は社会的に,そして歴史的に制約され,構成され,発達するものと捉える立場です。人が保育という社会的な過程の中で発達し,学習するという事実を,閉じられたシステムとしての心という立場ではない所から語る場を欲したものが本書です。
今や,人を取り巻く文脈として,制度としての保育や学校教育,そして多様な社会教育を無視することはできません。言うまでもなく発達は真空の中で生じるものではありません。多くの異なる他者との出会いの中で人は育つのです。そして人となっていくのです。この過程が発達と学習の過程です。文脈が変われば,人の発達や学習の過程も変わります。そこで創られる心もまた変わるのです。ある心的傾向はある行動傾向と対応し,他者との出会い方に影響を与えます。そうした積み重ねが社会や歴史を作ります。
(中略)
確かに社会的な存在として生きるということは,他者の価値観に晒され,他者から肯定的な評価を得ることが必要であるという側面があることは否定できません。しかし,この社会で生きることはそうした他者の眼差しに誘惑されながらも,それに抵抗を繰り返し,出口のないような二律背反状況をやり遂げていくことでしかないのではないでしょうか。こうした状況は心理的にはとても居心地が悪いものです。でも,生きることは本来居心地が悪いものではないでしょうか。この居心地の悪さを抱えながら何とか生きながらえる力を支えるものが広い意味での保育ではないでしょうか。生きることは学ぶことです。何かを学ぶことはとても苦しいことです。楽しみだけでは学習は成立しません。その苦しみが楽しみと表裏一体であることを実感できることを底辺で支えるものが師や仲間との保育的なかかわりなのです。
うまく生きることができなくても「ここに居ていい」という感覚が保育の場にはあります。これは制度としての保育園に限らず,幼稚園でも,学校でも,障害者施設や作業所にも共通する感覚です。内へ内へと穴を掘るように自分を探すのでも,外に向けて自分を売り渡すのでもなく,相互に支え合いながら,他者と関わる中で自分を育てる所が保育の場であり,そうした場の中で他者への信頼を形成する所が保育の場ではないでしょうか。
(本書まえがきより)
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