本書の執筆にとりかかりはじめたころ、著者らは、「教育基本法改正への動き」の整理を試みている。これから、教育基本法の改正について活発な議論が展開され、論点が整理されることを予想しつつ、教育における様々な問題を洗いだしていた。しかし、実際には、これが十分に整理される間もなく教育基本法は改正され、それに続き教育関連諸法案が次々と改正されていった。教育にかかわる者が、国の教育の根幹をなす諸法と法の基礎となる研究に向き合わずして、今何を問おうと言うのか、と自問自答しながら、今日の原稿は明日には捨てるという逡巡の時間を過ごしたように思う。
しかし、混乱する今日だからこそ、慌てふためいて軽はずみな改革論を述べたり、表層的な実践を語ったりすることは避け、視点を定めて教育を眺めてみることが必要なのではないか。そうしたとてつもない問いと向き合う中で本書は、著者それぞれの視座から脱学校化社会の教育学を考究することを試みた。
第1部は、学校という空間を問い直すための視座を提起した。近代社会を維持するためのきわめて優れたシステムであったこの学校空間が、今なぜこんなにも閉塞状態にあるのか。この空間の何が批判され、何を改革しようとしているのか。繰り返される論争の中で、われわれが本当に問うべきことは何なのか、錯綜する問題を検討した。
ポスト近代化社会において、学校が再生するためには、構造的な学びの転換、子どもと教師の関係の再考、そして、学び合う人同士が出会い協同する拠点としての学校の構築が目指される必要があるのではないか、その具体的課題の整理を試みた。
第2部は、明治の学制以来、学校化に寄与した教育学の位相を踏まえて、新たに脱学校化に向かう教育学の位相を就学前教育の立場から構造化し、循環型社会(理性的共同体)への転換を提案した。第1章は、主体・客体二律背反の教育学が抱えてきた課題を浮き彫りにしながら教育学の構造と命題を整理し、就学前教育から生涯にわたる広義の教育学に位置づく場所(トポス)論の命題を試みた。第2章は、教育対象の場所(トポス)論を展開し、第3章では江戸時代の循環型の社会システムや教育システムを捉えている。教育も所詮、社会・文化的営みの枠に縛られるものであり、大局として循環型社会に位置づかないかぎり、100年を周期に行き詰まりを迎える。環境だけでなく、人間形成そのものの環境を循環型に移行することは容易でないが、贅肉を落としてスリム化したところに、教育の本質が見えてくると考えるのである。
結果として、著者二人の、言及する視座を変えることにより、教育という営みがこんなにも見え方が異なるということを提示することになった。教育というきわめて複雑で多様な営為を、一方向から分析するのではなく、多面的かつ総合的にみていくことの必要性を感じるとともに、教育を語ることの困難と面白さも体験することとなった。
この後の時代の教育にわれわれは何を望み、何を構築しようとしているのか。今もなお終わりのない問いに直面している。読者諸氏には、本書が次代の幼児教育における”知の探究”への試みの第一歩であることと、脱学校化社会における教育に対する一つの問題提起の段階にあることをご理解いただき、実践および研究の場においてぜひともこの議論の続きを展開していただきたい。
(本書まえがきより)
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